ホーム > 八仙閣について

中国に古くから伝わる八仙人より命名された「八仙閣」は、昭和42年に福岡博多の地に創業いたしました。
日本人に愛される中華料理を目指し、やさしい味、さわやかな味に徹し、北京料理よりスタートした料理も、
時代と共に四川・上海・広東を加え、総合的な中華料理へと発展いたしました。
現在では、西日本屈指の中華料理専門店として、年間145万人のお客様にご利用いただいております。

八仙人とは

八仙とは、中国に古くから民謡として伝えられる八人の仙人です。中国ではおめでたい行事には欠かせない人気で、日本における「七福神」と同様に神格化された神様です。中国では優れた能力を発揮し、世のため人のために尽くした人の偉業を讃え、自らもその神様になりたいとの願いを込め神として祀りあげます。神や仙人になるということは永遠の命を与えられることを意味します。

八仙の中では中心的仙人で、すでに元代から人気があり、元曲にしばしば名が見え、こんにちでは扶乩(フーチー)やおみくじで中国の人々から絶大な信仰を得ているために「民衆道教の教祖」を呼ぶ日本の道教研究者もいるほど高く評価されております。 彼は姓を呂、字を洞賓ともいうが、巌という名だともいわれている。一般的には「呂祖」と通称される。出身は山西省の蒲坂永楽鎮で、唐の徳宗の貞元十四年(794)四月十四日誕生だという。

二十一歳のときに科拳の試験を受けるように推薦されたけれども、試験に落第してしまった。それでも、暫くして五峯廬山の県知事に任命されたある日、廬山に遊びに行ったら鐘離権(しょうりけん)に出会い、終南山に連れていかれて、山中で前後十回に及ぶ試煉を課せられた。それに無事パスして、天遁の剣法や竜虎金丹の秘法等を授けられ、純陽子という道教の道士の号も与えられた。

別名、鐘離権(しょうりけん)といい、字は雲房、号は正陽子といい、咸陽の人とされている。漢に仕えていた左諫議大夫(さかんぎたいふ)にまでなったが、あることで流されて南康軍の知事になった。漢が滅んだのち晋に仕え、武帝のときにはしばしば兵を率いて戦ったが、ある時たまたま敗れて一人で終南の山中に逃げ込んだ。ところが山中で道に迷い、方々さまよい歩いていくうちに、ある隠士から南東にいくように教えられたので、その言葉に従って歩いていると、東華帝君の住む洞の前にでた。そうして東華帝君から、お札、秘書、金丹の秘訣や悪鬼・悪霊を退治する青龍の剣法など、様々な秘文・秘法を授けられて下山した。それからというものは正陽子と号して、ひたすら神気の修煉に打ち込む一方、多くの霊験をあらわしたが、九世紀の前半には廬山に遊んで呂洞賓に会い、彼に天遁の剣法などの秘儀を伝え得道させた。

 

宋の曹太后の弟だった曹国舅は、自分の弟が姉の権勢をかさにきて無法なことで人々を苦しめたり、人を殺したりするのでしきりに諌めたが、一向に聞き入れないので、ついに山中に隠遁し、修業に明け暮れていた。それを見た鐘離権と李鉄拐がやって来て、おまえは修養しているそうだが、何を養っているのかと聞く。

曹国舅が道を養っていると答えると、道を養うというものの、その道はどこにあると思っているのかと笑いながら問い返す。国舅が黙って天をさすと、それでは天はどこにあるのかとたたみかける。国舅が自分の心をさすと、二人は大笑いに笑って、心は即ち天、天は即ち道というわけだな。お前はすでに自分で本来の面目を自得しているといい、還真の秘旨を授けた上に神仙の仲間に加えたと、『神仙通鑑』にみえている。

唐代の人といわれているが、「養素」という字がわかるだけで、どこで何をしていたかわからない。いつも破れた藍色の長衫(ちょうさん)に、約10cm幅の黒い木を腰帯代りに捲いていたが、片足には靴を履き、他の足は裸足だった。夏は綿入れを着るのに、冬は雪の中に寝ても身体から湯気が出ていた。いつも、手に1mぐらいの長さの大きな拍板(びんざされ)をもち歌いながら街を歩いて食をもらっていたから、狂ったように見えたが実はそうではなかった。彼はしばしば「踏々歌」という新体詩を靴をふりながら歌ったが、じつはその中には仙道の意味が込められていたのであった。その歌を聴いて彼に銭を与える人々もいたが、彼はもらった銭は縄に通して曵きずりながら歩き回り、縄が切れて銭が落ちても平気だった、時にはその銭を貧乏な人にやったり、いつも出入りしていた酒屋の人々に贈ったりしていた。その上、彼はいつまでたっても少しも年を取らなかった。 ある日、酒屋で飲んでいると、どこからともなく笙の音が聞こえてきた。それを聞くと、突然立ち上がり、舞い降りてきた白い鶴に乗って上天した。その時、靴、帯、長衫、拍板などを投げ下ろしたが、彼の姿が雲のなかに消えると同時に、それらも消え失せてしまった。なお、藍采和は女性だという異説もある。

韓湘子(かんしょうし)は、文豪で唐宋八大家で白居易と並び称される「韓退之(韓愈)」の外甥だったが、青年時代には酒ばかり飲んでいる放蕩者だった。二十歳の頃突然行方不明になったが、暫くして帰ってきた。みると、ボロを身につけ行いも普通でない。「韓退之」は学問をするように勧めたけれども、私のやってきたことは伯父さんのしていることとは違うと言って聞かない。そして、出来ることは草の花をすぐ咲かせることだという。やらせてみると、盆に土を盛り、牡丹を植えるとすぐ花が咲き花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」の一句が記されている。聞くといずれ分かるという。その年憲宋が仏骨を宮中に迎えようとしたのに反対した韓退之は、帝の怒りに触れて広東省の潮州に流された。たまたま藍関にさしかかったときは大雪で一歩も進めない。と、そこに現れたのが韓湘子。先の牡丹の花びらに現れた一句を悟った退之が聞くと、韓湘子は、自分の先生は「洪涯先生」だと告げた。

瓊(けい)という名の何仙姑は、一般には八仙中、唯一の女仙といわれている。広東省の増城市の「何泰」の娘で、誕生した時、六本の細い髪の毛が頭に生えていた。十四、五歳になった時、一人の神人が、雲母の粉を食べると身体が軽くなり、不死となることができると教えてくれた夢をみた。覚めても、あまりはっきりした夢なので、試しに食べているうちに本当に体が軽くなった。そこで、絶対に嫁にいかない決心をしたが、往来は自由自在になった。そして、かの女が山や谷を翔んでいるのを見たという人さえ出はじめた。かの女は、毎朝家を出て、夕方には山になっている果物を母への土産にもってきていたのがそのうち、辟穀(へきく)を始め、ことばも一般人とは違ってきた。これを耳にした則天武后が召しだしたが、かの女は都にいく途中で、突然姿が見えなくなった。中宋の景竜年間(707-710)に、かの女が白昼天に昇っていくのを見た人があったが、のち、750年にかの女が仙女「麻姑」の傍に従って、五色の雲の中に立っているのが見えたともいわれている。

ボロを着た片足の男に現わされているが、元来は堂々たる体格の持ち主で厳つい顔の人物だった。一説では西王母の教えをうけて東華教主となり、鐘離権(しょうりけん)を得道させた人だというが、他の説では彼は李凝陽(りぎょうよう)といい山中の岩穴に籠って修行していた。それを見た老君と宛丘先生は、求道の志の堅固なことを知って彼に道の秘訣を授けたという。 ある日、老君と崋山で会見する約束になっていたので、弟子に、自分の魂はここを去って崋山に行くが、身体は残しておく。魂が七日たっても帰ってこなかった場合には、身体を焚いても良いが、それまでは絶対に動かしてはいけないといい置いて出かけて行った。ところが、弟子は、六日目に母が死んで家に帰らなければならなくなったので、鉄拐の体を焚いて急いで家に帰ってしまった。七日目に帰ってきた鉄拐の魂は入るべき身体がなく困ってしまった。けれども、幸にして近くの路傍に飢えて倒れていた片足しかない乞食がいたので、その身体に入って再生した。そのために、今のような醜い格好の男となったのである。 また、人々が片足で食を乞いに歩くのを馬鹿にするので持っていた杖を投げると龍になり、その龍に乗ってどこか飛んで行ったという話も伝えられている。

張果といわれる張果老は山西省の中篠山に隠遁していたが、常に白い驢馬に乗って省内の汾州や晋州と往来していた。その驢馬は、一日に数万理歩くことができたがその上に不必要な時には折り畳んで紙ぐらいの厚さにして、衣装箱に入れることも出来る。 彼は自称数百歳、帝堯のおつきだといっていたが、そんな年齢に見えないので長生術を心得ているという噂だった。当の太宗や高宋が召してもいかなかったが則天武后が招くと、山を出たところの妬女廟の前で突然死んだ。腐敗してしまい、報告するのちに中篠山で会ったという人がいた。 のちに玄宗が召すと、今度は出て来たので、集賢院において銀青光禄大夫とした。ある時、玄宗が彼が白髪で歯も抜けている理由を聞くと、抜けば治るかもしれないといって即座に歯と髪を引き抜いたので、血で附近が真っ赤になった。暫くして御前にでてきたときには黒い髪と白い歯となっていた。玄宗が有名な道士「葉法善」に彼の素性を尋ねると、臣は知っているが、言うと死にます。けれども、陛下が裸足になり冠を脱いで救って下されば申しますという。玄宗が承知すると、あれは白い蝙蝠の精だといったかと思うと「葉法善」は死んでしまった。玄宗が張果老に言われたとおりの格好で詫びると、生き返った。



  • トップページ
  • プライバシーポリシー
  • 利用規約
  • 蓮双庭ダブルスロータスガーデン
  • 日本料理銀香梅

〒812-0013 福岡県福岡市博多区博多駅東2丁目7-27

西部ガス